アクティブ・ラーニングの本質

教育界では、ここ数年アクティブ・ラーニングが、大流行です。様々な、アクティブ・ラーニングの書物も出版されていますね。中学校や高校、小学校の高学年でも、教師が黒板の前に立ち一方通行的に教える授業から、生徒自身が参加する問題解決型の授業が、アクティブ・ラーニング型の授業です。

 

ただし、学校の先生の中には、今までのスタイルと違うやり方に、「授業の進め方がうまくいかない」「なかなか全員参加型の授業ができない」など、必要性は誰もが認めるものの、教え方のスキルに温度差があるのが現状です。逆に、一般の会社で行われている社外研修などのほうが、ずっと以前から、このアクティブ・ラーニングの手法が確立していてます。「ただ聞いているだけの研修」は、過去の話です。

 

こんなところにも、民間企業などの社会人経験者のスキルが、学校教育にもさらに反映される時代に、これからはなっていくのでしょう。

 

さて、少しひねくれた見方かもしれませんが、面白い記事を見つけました。

 

「アクティブ・ラーニングが大流行であるが、不思議なことがある。いま子どもの世界では、『見ざる・聞かざる・言わざる』の三猿を演じなければ、学校でのいじめや様々な圧力に対応できない。三猿をそのまま生きているような傍観者の位置に居場所を確保することが、『生きる力』となっているかのようにも見える」

 

こんな空間では、自分の主体的な考えや、個性的な多様な意見を出し合うことが、危険であると子どもたちが感じ、活発に議論することなど、出来ようはずがないのでは?という警鐘です。

 

討論型授業=アクティブ・ラーニングという形式にとらわれると、「うちの学校は、今、(教育界のブームである)アクティブ・ラーニングを積極的に取り入れています」なんていう、目的と手段が逆転しまうことも起こります。

 

子どもたちが「自分で考えて自分で答えを出せるようにすること」「自分と違う意見や考え方があることを認識すること」これが、「生きる力」の核とするなら、アクティブ・ラーニングというかっこいい横文字の本質をきちんと考えないといけませんね。

 

アクティブ・ラーニングという言葉を使う前に、私たち大人は、たまには考えることにしましょう。もちろん、多様な子どもたちを相手に、1つの答えにはなりません。