22年目の朝

22年前の早朝・・・1995年1月17日午前5時46分阪神淡路大震災が発生し、6000人以上の尊い命が奪われました。当時、震災によって大きな被害を受けた市町村で、地震の対応や復興に携わった職員の多くが、22年が経過し定年退職しているそうです。震災を直接経験した「語り部」が、役所の中でも消えようとしています。

 

当然ですが、1995年1月17日を風化させてはいけません。

 

1995年のプロ野球を回想します。このシーズンは、神戸のオリックスブルーウェ―ブが、「がんばろうKOBE」を合言葉に、勝率.636 2位に12ゲーム差をつけ、圧倒的な強さで、パリーグのリーグ優勝を果たします。

 

オリックスの監督は仰木監督で、あのイチロー選手もいました。イチローは、前年にシーズン200本安打を達成し、日本プロ野球界の期待の星として、一番注目をされていました。1995年のシーズンも231安打を達成します。

 

日本シリーズでは、野村監督率いるヤクルトスワローズに敗れ、日本一とはなりませんでしたが、シリーズでも主役はイチローでした。「ヤクルトが日本一となったのは、徹底的にイチローをマークし、打率を1割台に抑えたからだ・・・」と言わしめたのです。

 

私も、この年の日本シリーズで、ヤクルト投手陣の、イチローに対する徹底的な内角高めへの攻めを今でも覚えています。イチローは、逆にこの経験があってこそ、ほとんどすべてのコースに対応できる「弱点がない」打者へとさらに成長したのです。

 

私の1995年は、「一杯のチョコレートから子どもたちの笑顔へ」の本で紹介していますが、私は神戸の洋菓子メーカーで勤務をしていました。東京支店で働いていましたので、この日は、朝のニュースで、関西が大変なことになっている!という状況で家を出て、大宮そごう百貨店のバレンタイン特設売場のチョコレートの陳列をしていました。しかし、本社とは連絡が取れないという、気が気でない状況でした。

 

その後、神戸に勤務する仲間から、生々しい話をたくさん聞きます。ここでは書けない、耳を疑うような話も多く聞きました。そして、今でも、震災を知る多くの仲間が、1月17日には、早起きをして5時46分に黙とうを続けています。

 

みなさんの1995年の記憶は何ですか?「結婚した」「子どもが生まれた」何でもいいです。特別な一年として、大切に子どもたちへ伝えていきたいものですね。