福島で教壇に立つ

今日は、屋上ファームで大根の収穫をしました。今日の収穫分は、秋に種をまくのが遅れてしまい、小ぶりの大根ですが、味がしっかりと凝縮されていることでしょう。子どもたちは、大根を引っこ抜く担当と水洗いする担当と上手に役割分担ができています。(笑)

 

さて、3・11を前に、少しづつですが「復興」につながる話題が、取り上げられるようになりました。

 

東日本大震災が起きた6年前、教員採用試験を中止した福島県への支援の一つとして、東京都は「福島県枠」の教員を46人採用しました。5年間、都内の小学校で勤務し、その後、福島へ戻って教員を続けることが認められる制度だそうです。そして、現在も教員を続ける40人のうち、福島へ戻ることを希望する26人が、この春、帰郷します。

 

帰郷する一人の伊東教諭は、福島大学を卒業後、30歳を過ぎるまで金融機関に勤務するサラリーマンでした。しかし、教職を諦めずに採用試験を受けていた大学時代の友人に影響を受け、「やっぱり、お金を相手にするより子どもたちを相手にしたい」と考え、「福島県枠」で教員となりました。

 

彼は、東京での教員生活の中で、様々な家庭環境に驚くものの、子どもたち自体には、都会も地方も関係ないこと。東京では、教育予算が確保され、いくつかの研究会に参加して、国語の授業力を磨くことを経験します。一方で、地方の良さにも気が付きます。校内で、教員同士が授業づくりを話し合う文化があることは、都会の学校では多くは見られません。

 

伊東教諭は、サラリーマンを経験する「よのなかの先生」だけでなく、東京での教員生活を福島の故郷で、活かしてもらいたいですね。

 

もう1人、福島県猪苗代町出身の武藤教諭は、地元の大学を卒業後11年間、臨時採用の常勤講師を続けていました。試験勉強よりも学校の仕事を優先してしまうので、福島県の採用試験は狭き門ゆえ不合格。6年前に東京都の「福島県枠」を合格します。

 

「福島でも東京でも子どもは変わらないんだな」と感じる一方で、東京では、子どもへの人権感覚を強く意識するようになったそうです。朱入れした習字の作品でなく、清書したものを掲示するなど、東京では、人権感覚が教育活動の至るところに浸透していたそうです。自身の見方も「子どもへの配慮ではなく人権という意識に変わった」と言います。

 

この春、福島の小学校へ帰郷する26人、それぞれの思いや、背負うものがあるでしょう。しかし、震災がもたらした、この経験を福島の子どもたちのために・・・頑張ってもらいたいですね。