道徳の授業・・・こうあるべき

今日は、朝から雨となってしまったので、運動会の練習はできませんでしたが、運動会のポスターを子どもたちが思い思いで描きました。リレーで走っている絵が多かったですが、運動会を行う西文ひろばに、このポスターを貼って告知します。寺子屋園児が中心になりますが、絵が選ばれた園児は、大喜びで、さらに練習にも力が入るのです。

 

さて、今日は、道徳の授業の話です。2018年度には、道徳は、国語や算数と同じように教科となります。教科書が用意されるほか、児童生徒の評価も始まります。

 

ところで、みなさんが、子どもの頃に受けた道徳の時間・・・覚えていますか?

 

「読み物を読んで感想を言うだけだった」

「印象に残っていない」

「いじめについての授業だと、だめに決まっている、という意見に賛成するばかり。みな同じ感想だった」

「本音と建前を学んだ時間だった。本当はこう思っているけど先生が答えて欲しいことをくみ取っていく授業だった」

 

どうですか、自分が受けた道徳の授業を思い出してきましたか・・・

 

「考え、議論する」道徳へ転換するのが、今回の教科化の目的です。あるフォーラムでは、こんな意見が出たそうです。

 

「『いじめはだめだ』、『そうそう』という練習だけではダメで、いじめる側は何を考えているのか、どうしていじめが起きるのか、など、もっと議論を深めなけれなならない」

 

「先生が『こう思った方がいいよね』という風に誘導する授業ではなく、生徒が意見を交換し合い、ここは似ているけど、違うところもある、と異なった意見の発見がある授業がいい」

 

「学年、学級の枠にとらわれる必要はない。テーマ別に、いろんな学年の集団と関りがあってもいい」

 

これからの日本が進む道は、互いの違いを認め合う多様な社会を目指すことは、間違いありません。ならば、今までのような「答えが一つ」の道徳の時間は、意味がなくなるでしょう。

 

「答え」がいくつもあって、それを自分で選択しなければならない事や、「答え」がないかもしれないことに、じっくり向き合える資質や能力が、これからの子どもたちには必要になります。

 

子どもたちを育てる、私たち大人が問われているのかもしれません。