評論家になるな!

今日も台風の影響で、プールは中止。その代わりに、教室内でゲーム大会です。マット引っ張り競争、かりもの競争、玉入れなど、たまにやるので、子どもたちは大いに盛り上がります。勝った負けたの「泣き笑い」です。時には、白黒つけることも現実社会では必要なのです。

 

さて、私が新入社員の頃の話です。当時の上司から、口癖のように「評論家にはなるんじゃないぞ!」と教えられました。つまり、何かに取組もうとするときに、自分の考えや熱い思いを語らずに、まるで評論家のように、表面上の意見を述べることへの戒めです。

 

ある教員志望の大学生が、「教育界の体質が合わなさそうだから、教員志望はやめました」と決めたそうです。彼の意見です。

 

『文科省は「生きる力」やら「主体的・対話的で深い学び」というハッキリしない目標を掲げていて、付いていくのは無理そうです。こういう現場を無視した理想論と児童・生徒の間に教員が板挟みとなって、教育活動の意義まで曖昧になっているのです。

 

「アクティブラーニング」だって、十分に検証されずに、現場に押し付けられて、混乱を

生んでいます。学校の働き方改革は絶対うまくいかないでしょう。事務員を増やせば、先生が抱える仕事をこなせますよね。そうしないのは国が、「教育なんかにお金を出したくないよ」ってことでしょ。つまらない教員志望者を見ていて「同僚になれない」と気付きました。』

 

どうですか・・・まさに、自分がない「評論家発言」ですね。彼には悪いですが、私が面接官なら、こっちから「不採用」を通告します。同僚になれないと言っていますが、まわりが「こっちからお断りだよ!」と言われてしまうでしょう。

 

「生きる力」も「主体的・対話的で深い学び」も、自分自身のやり方で、具体化するものですし、アクティブラーニングの検証も、人がやることではなく、自分の授業の中で、失敗という経験を積み重ねて、築き上げていくものですね。

 

「自分で考えて自分で答えが出せる人」なら、こんな考えは持ちません。サラリーマン時代の先輩からの受け売りですが、悩んだ時や壁にぶち当たった時に「ものごとの真ん中に自分を置きなさい・・・そうすれば、まわりが見えてくるから」と部下や後輩によく言ったものです。

 

生き方や仕事における自分の立ち位置は、当然自分で決めることですが、どうせなら、前向きで、まわりも明るくなるような考えを持ちたいですね。

 

はい。これは、自分への戒めでもあります。