やめませんか?同学年の一斉比較

今日は、ある中学校の校長先生のボヤキです。

 

「日本の学校は、全員一斉に作品を張り出したり、全員一斉の統一テストをしたり、同一学年全員との比較がされ過ぎているんじゃないだろうか。比較で競うことによって学力が伸びる者もいるだろうが、逆にそれによってやる気をなくしたり、あるいは、そこの比較の中での満足で止まってしまったり、そもそも自分のペースで、のびのびと楽しむということができなくなるのではないだろうか。

 

明治以降に学校ができたおかげで、教育機会が均等に与えられるようになったのは、意義深いことだけど、全員一斉の比較は、教育機会の平等とは別の話だ。

 

得意な者同士がお互いにルールを決めて競うのは結構だが、全員が強制的に並べられ比較できる状態にされる必要はない。他者は他者だ。それぞれ得意なものや取り組んでいることが違っていい。むしろ違ってないと世の中が成り立たない。なのに、幼少期から同じそ上で同学年一斉に比較されて育ってきた日本人は、大人になっても、周りの平均なようなものを気にして、なかなか自発的に動けなかったりする。

 

今の日本の学校は、特殊な価値観を持つ特殊な環境であることに自覚的になった方がいい。卒業した後の社会は学校に比べるとはるかに多様で、同学年同士の比較など意味がない。

 

というようなことを、しばしば話すのだが、この考えに賛同は得られても、じゃあうちの学校でやめてみようとという話にはならない。その理由はいつも同じだ。日本中の公立学校が一斉に同じそ上で比較されているからである。もちろん本校もそのうちの一校として他と変わらぬ教育をしている」

 

こんなことを考える校長先生が増えてきたせいもあって、広島県や愛知県では、公立学校でも異年齢教育のイエナプラン校を設立する自治体も出てきています。昭和ガチガチの先生は、クラスの中で勉強ができる生徒を「みんなのペースに合わせろ!」とけむたがっていましたが、アクティブラーニングが当たり前の平成・令和の先生は、クラスの生徒たちの学力差があっても、上手にその個性をぶつけ合って、学び合う仕組みを模索しています。社会に出れば、様々な価値観の中で人は生きていくのです。

 

そうだ。ホワイトきゃんばすは、異年齢保育だった。年長園児のレベルを垣間見る年下園児は、目標が高いですよ。「これくらいでいいや~」なんて思いません。もちろん、異年齢ですので、言葉や絵や工作のレベルが違って当たり前の環境です。子どもたちは、互いに影響を受けながら、突き詰めれば、個性を磨いているのかもしれませんね。