家康は「とら」ではなく「うさぎ」年!?

今日は、昨日のような強風はなく、屋上遊びにはもってこいとなりました。子どもたちは各々の遊びをしますが、久々に園長チームは野球をやりました。きちんとダイヤモンドとベースのラインを引いて、「打ったら走る」で楽しみます。固定ティにボールを置いてバットで打つので、確実に打球が飛びます。守備側は、ボールが転がると、全員がボールを追いかける有様です。一人が追って、中継プレーすることを教えますが、細かいルールはさておき、年長から年少までの参加メンバーは、野球を楽しみました。

 

さて、今年の大河ドラマは「家康」が主人公ですが、歴史上誰もが知っている人物ですね。しかし、ドラマでは、私たちが知らない家康像も出てくることでしょう。今日は、その一つ、家康の干支は「寅」か?「卯」?かです。

 

家康は天文11(1542)年12月26日生まれとされています。徳川家の家系図でも、1616年に75歳で没したと記されています。これでいくと、家康は「寅」年となり、広く私たちが認識しているところです。家康を祀る日光東照宮でも、家康の干支とされる、迫力ある虎の絵がたくさん見られます。

 

ところが、家康が征夷大将軍となった時に、毒殺などを跳ね返すために、陰陽師がおまじないをする習慣が鎌倉時代からあったそうで、そこには、家康自身が天文12(1543)年と記したのです。こうなると、寅年ではなく卯年生まれで、今年は年男と言うことになるのです。「どっちなの?」は、専門家でも意見が分かれるそうです。

 

陰陽師のおまじないで、まさか自分の年齢を詐称するのは、天に嘘つくことになるので、家康は卯年とする説では、天文11年12月26日が、「寅の年・寅の日・寅の刻」で、誕生日すらも帝王になる資質を備えていたとする方が、家康のイメージアップにつながるので詐称したのでは、と考えるのが定説です。

 

歴史学者の磯田道史さんは、卯年説を主張します。家康は「竹千代」と命名されました。命名を祝しての「歌会」の記録は、天文12年2月26日となっているそうです。もし、家康が天文11年12月生まれなら、「歌会」の日まで、2か月間も竹千代と命名されなかったことになります。松平家の嫡男が、2か月も名前が決まらないのはおかしいので、家康の本当の生まれは、卯年である天文12年2月26日から遠くない日だったのでは。という考えです。

 

ここら辺の話は、飲み会などで、大河ドラマの話になったときに、「うんちく」として語るのもいいかもしれません。(笑)

 

もう一つ、徳川江戸幕府は、第15代将軍徳川慶喜をもって、明治時代となるのですが、今月、徳川宗家19代当主として「徳川家広」さんが徳川宗家を継がれました。実は、家広さんは、年齢では、私と同じ学年です。令和の現代に、知る人ぞ知るで、徳川家は引き継がれているのです。家広さんには、子どもがいないので、第20代は、養子になるのでしょう。

 

以上、「どうする家康」のうんちくでした。