目の見えない人は世界をどう見ているのか

今日は、先日屋上で採集した「ドクダミ」の乾燥が終わり、ついに、「ドクダミ茶」を子どもたちと作って、飲みました。乾燥したドクダミは、あの毒々しい匂いはありません。お湯に入れて、お茶にしていくと、ドクダミの香りが漂ってきます。そして、麦茶のように、茶色になっていきます。

 

少し冷まして、「飲みたい園児」ざっと20人と試飲しました。麦茶を飲みようにはいきません。体にいいという先入観があるので、大人は飲めますが、子どもたちは、渋い顔をしています。でも、二人の園児が「もう一杯!」と、お代わりをしました。冷蔵庫で冷やして、また試飲します。

 

さて、「人が得る情報の8割から9割は視覚に由来する」と言われています。なるほど、私たちは視覚情報に依存した生活をしていますので、このデータに異論はありません。そして、目が見えない人は情報量が少なくて不自由だろうと障害をネガティブに捉えがちです。しかし、日曜日のドラマ「ラストマン」で、全盲の捜査官を演じる福山雅治さんの行動を見ると、福祉社会に頼るスタンスではなく、自らの力で、周りを巻き込みながら、事件を解決しています。「ドラマだから・・・」とは、簡単に言えないかもしれませんね。

 

表題の著者である伊藤亜紗さんは、障害者やその関係者に話を聞いて、感じたことを記します。

 

「視覚障碍者と一緒に歩いたとき、見える人では持ちえないような空間が頭に作り出されます。見える人には視点があるので必ず死角が生じるが、見えないと視点を持たないが故に視点に縛られず、むしろ視野が広がるのです。つまり、目が見える人は、視覚に頼っているために、欠落しているものがあるということです」と言います。ドラマの福山さんの行動などは、まさに、これに当てはまりますね。

 

また、目の見えない人は、「足裏の感覚から得る情報量が豊か」であるといいます。足は、歩き走るという運動器官と私たちが考えますが、目の見えない人は、感覚器官でもあるのです。手の触覚は、点字などが街中に広がっていることもあって、さらに研ぎ澄まされています。

 

また、見えないという障害が、その場のコミュニケーションを変えたり、人と人との関係を深めたりすることがあります。ドラマの福山さんは、まさに「人たらし」として描かれていて、彼に巻き込まれた人たちは、どんどん影響を受けて、前向きになっていくのです。

 

今までは、「障害がある人」に対して、どのように情報が伝わるようにするかとか、配慮を考えないとなど、「福祉」の考え方で、私たちは接することが多かったです。しかし、ある生物学者は、「見えないことは欠落ではなく、脳の内部に新しい扉が開かれること」と言います。つまり、障害を持つ人の「能力」をもっと引き出すような考え方が必要なのかもしれません。「共生」という考え方ですね。