世間は「敵」じゃない

日本で開催されているということもあり、おそらく多くの人が、東京パラリンピック2020の競技を見る機会が増えたことと思います。私も、初めて「こんな競技があるんだ」「障がいの基準は、こう決められているんだ」ということが多くて、今まで、パラリンピックへの関心が低かったことを実感します。

 

そして、アスリートたちのストーリーに、どうしても関心が高まります。

 

オリンピック同様に、連日のメダルラッシュとなっていますが、女子走り幅跳び(義足)の中西麻耶選手36歳は、今回4度目のパラリンピック挑戦です。

 

塗装会社で働いていた21歳の時、落ちてきた鉄骨の下敷きになり、右膝から下を失いました。リハビリの過程で進められた陸上を始め、2年後の北京大会に初出場し、200メートルで4位に入賞します。しかし「ここままじゃダメ」と、本気で戦う世界選手に刺激を受け、翌年に単身渡米し、ロス五輪男子三段跳び金メダリスト、アル・ジョイナーさんに師事し走り幅跳びを始めます。

 

しかし、米国の暮らしは苦しく、ホテル代がなくて遠征先の公園のベンチで野宿したこともあったそうです。2012年のロンドン大会前にセミヌードカレンダーを発売したのは資金集めが目的でした。しかし、この時、別の思いもあったのです。「障がい者でも引け目を感じなくてもいいし、義足も知ってほしい」と。

 

私も記憶にありますが、体はモノクロで、義足だけをカラーにして浮き立たせた作品は、話題を呼んだのですが「障がいを売り物にしている」と批判を浴びます。中西選手は、精神的に追い込まれ、大会後に一度は引退します。

 

しかし、ジョイナーさんの「誰かの人生に影響を与えられる人は一握りだ。君はそうなれる」の言葉に、翌13年に復帰を決意します。その後、健常者の大会に積極的に出場したり、SNSで練習の様子や暮らしぶりを発信し、CMや雑誌にも登場。ファンやスポンサーが自然と増えていったのです。

 

世間が「敵」だった時もありましたが、「今までは、自分一人で戦場に向かう感覚だったが、今はみんなで舞台に立っている」と中西選手は言います。

 

東京2020では6位とメダルには届かなかった中西選手ですが、こんな人生のストーリーを重ね合わすと、心から拍手を送りたいですね。