女医のパイオニア 荻野吟子

今日も、朝の教室では、発表会の練習で、歌にダンスに子どもたちが頑張り、屋上では、自転車の練習をする園児が増えてきました。寺子屋前の2歳児の男の子が、補助付き自転車をこげるようになりました。ストライダーはバッチリですので、あとは勇気あるのみです。

 

さて、埼玉県出身の偉人といえば、現在の深谷市出身の渋沢栄一が思い浮かびますね。私の仲間の大河ドラマ評論家が、最終回後に、深く的を得たコメントを発表しますので、こちらは、あらためてお楽しみいただきます。(笑)

 

今日は、深谷市のとなり、熊谷市出身の偉人の話です。「埼玉郷土かるた」の「お」では、「荻野吟子/日本の女医/第一号」とうたわれる人物です。

 

日本初の女性で、国家資格を持った医師が、「荻野吟子(おぎのぎんこ)」です。過去には「一粒の麦 荻野吟子の生涯」で映画にもなりましたので、知っている人も多いかもしれません。

 

彼女が69歳で亡くなったのが、1913年大正2年ですから、この時代に、女性として医者になるには、どれだけの苦労や壁に阻まれたか・・・容易に想像できますね。

 

吟子は、結婚した夫から淋病をうつされ、あげくの果てに離縁されてしまいます。治療の時に、すべての医者が男性で、その前に下半身をさらすことが、たまらなく恥ずかしく、屈辱だったのです。そこで、自分が医師になって、女性に同じような思いをさせないよう決意するのです。

 

明治6年に上京し、医師の塾に入り、後に東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)に通い、首席で卒業します。しかし、医師になるには資格が必要です。明治12年に現在の秋葉原にあった私立の医学校に入学を許されます。もちろん、女性はいませんので、吟子は袴に高下駄、短髪という男子学生と同じ格好だったそうです。

 

しかし、東京都は「前例がない」という理由で、医師試験の願書を認めません。そんな中、多くの協力者もあらわれて、ついに、試験を受けることができ、国家資格を取得するのです。

 

そして、医師を目指してから15年後にようやく、湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業するのです。令和の今でこそ、「ジェンダーフリー」が普通に語られる世の中になっていますが、吟子の時代は、想像するだけで凄まじい人生だったと思います。

 

新しい、朝ドラが始まりましたが、「荻野吟子」こそ、朝ドラの主人公で、広く知ってもらいたい人物ですね。