生まれる言葉、死ぬ言葉

今日の連絡ノートには、卒園式に出席した保護者からのメッセージがたくさん書かれていました。「○○ちゃんの涙につられて大泣きしてしまいました。自分の子が卒園する時には、バスタオルが必要です」とのコメントがありました。いつも、我が子が遊んでくれた先輩たちへの思いは、保護者の間でも深いようです。うれしいですね。

 

幼稚園なら卒園式をもって本当にお別れですが、保育園では3月31日迄、卒園児は登園します。まだ、卒園したという実感がわかないという保護者は、31日にまた涙する時がやってくるのです。

 

さて、「言葉は生き物」とはよく言ったものですね。

 

「クラスター」「ロックダウン」「リモート」「テレカン」「SDGs」といった言葉は、ほんの数年前までは、私たち一般人にとっては「何のこっちゃ!?」という未知の言葉でした。

 

平成から令和にかけての言葉の栄枯盛衰スピードも凄まじいものがあります。平成元年の有名な新語に「セクシャル・ハラスメント」があります。この言葉は、その後、「パワハラ」「モラハラ」「マタハラ」と全方向的ベクトルで展開され、立派な市民権を得ましたね。一方、流行語だった「オバタリアン」は、もはや死語となっています。

 

流行語だけではありません。例えば、「気づいた」や「感動した」という動詞を「気づきをもらった」「感動をもらった」と名詞化する傾向は、もらったりあげたりする日本古来の贈答文化の影響と言われています。

 

また、自分の中にある差別や偏見を包み込む緩衝材として、「黒人」ではなく「黒人の人」と「の」をつけてしまうのが日本人の癖だとも・・・コロナ時代となって、ますます言い切ることに恐怖心を抱き「あくまで個人的な意見ですが」という免罪符表現が編みだされたというのも、日本人の国民性かもしれません。

 

私は、日本語以外の外国語を上手に操ることができないので、「○○語では」と比較できないのですが、日本語には、優しくて曖昧な山ほどの一人称と二人称がたくさんあります。言葉の生き死にが、多い言語なのかもしれませんね。