待つことができない社会

今日の連絡ノートには、親子遠足の感想がびっしりと書かれていました。保護者の感想としては、「芝生の上を裸足になるなんて、子どもの時以来かもしれない。本当に気持ちよかった」「肉体を酷使するゲームは、もう体力が持たないけど、ネイチャーゲームは森の中を散策できて本当に楽しかった」「博物館にはまってしまいました。とても興味深く学ぶことができました」と、保護者の皆様も我が子と一緒に楽しんでいただいたようです。

 

さて、昔の話ですが、皆さんは「文通」や「交換日記」をしたことがありますか。文通は、手紙を郵便ポストに投函して、数日後に相手に届きます。それから、すぐには相手から返事が来ないことが多いですね。また、返事を書くには、じっくりともらった手紙の内容を踏まえて、自分の近況を便せんに綴りますので、やり取りに時間がかかります。

 

交換日記はどうでしょう。私の学生時代には、女子同士でよく行われていました。普通の日記と違って、交換相手が読むことが前提です。相手の日記を読んで、今度は自分の日記を綴ります。これも、毎日必ず交換というものではなくて、何日か時間がかかります。

 

「文通」も「交換日記」も、相手の文章を読むことと、自分のことを綴ることが大きな楽しみですが、もう一つ「待つ」楽しみもありますね。ワクワクしながら待つ時間は、昭和の時代では当たり前だったような気がします。

 

ところが、平成、令和と時代の流れの中で、最近は「言葉が軽くなった」と、ある哲学者が言います。その理由は、「既読マークがついたメッセージは即時の返信が求められ、相手を思って言葉を吟味することが希薄になっている」というのです。

 

パソコンの普及で、私たちの仕事の効率は、過去に比べると格段にアップしました。また、スマホの普及で、年を追うごとに時間の流れが早くなっています。何かを調べるのも、昔は図書館で辞典を調べたり、それなりに時間がかかりましたが、今は、あっと言う間に検索できます。

 

ある哲学者は、この状況を「待つことができない社会になった」と表現しました。その通りですね。どうも、私たちの「せっかち」な生活は加速を続けているようです。

 

せっかちは、「未来に向けて深い前傾姿勢をとっているようにみえて、実は未来を視野に入れていない。未来というものの訪れを待ち受けるということがなく、いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着を見ようとする」とも言えるのかもしれません。

 

手紙を書くことの良さが言われるようになって久しいですが、相手のことを考えて、文案を練る時間が大きな価値であることを、私たち大人は子どもたちに伝えないといけませんね。