スポーツ哲学

昨日は小学生が登園したので、屋上にバトミントンのネットを出して楽しみます。また、バスケットボールのドリブルからシュート練習に夢中になる子どもたち・・・野球も固定ティにボールをのせてのバッティングで園児が楽しみます。私も、久々に本気の壁打ちテニスで汗を流しました。

 

なぜ、人はかくもスポーツに熱狂するのでしょうか。今になって賄賂事件が発覚した東京五輪ですが、開会式の視聴率は50%を超えました。この数字は「五輪愛」、悪くいえば「五輪中毒」と言えますね。私もずっと五輪中継を見入っていました。

 

もちろん、スポーツを巡っては、部活動の体罰やセクハラ、危険プレーなど問題点が指摘されるものの、私たちの常識として「スポーツは望ましいものである」という前提は、決して揺らぐことはありません。

 

テレビのニュースで、暗い話題が報道されても、スポーツコーナーになると、キャスターは笑顔だし、私たち視聴者も、気持ちが前向きになるのです。

 

しかし、スポーツには時々異常とも思える世界があります。高校球児の熱いプレーに感動する高校野球も、地区予選では122対0という大差試合も発生します。ここには、正直感動はないでしょう。プロ野球では、リーグ3位が日本シリーズで優勝して下剋上日本一と呼ばれることが過去にありました。そのチームを心から称賛する気持ちにはなれませんね。しかし、この理不尽もスポーツなのかもしれません。

 

また、勝つことが、必ずしも一番輝くことでもないことを私たちは知っています。保育園の運動会での感動は、たとえ勝つことができなくても「最後まであきらめないで頑張った園児の姿」に感動を覚えることが、今まで何度もありました。「勝つ」だけでない・・・

まさに、人生の本質かもしれません。

 

またまた、すみませんが、アントニオ猪木さんの例をあげます。彼のプロレスは、勝ち負けに関係なく、レスラーの優劣を観客に鮮やかに示すプロレスでした。相手の力を十分に引き出してから、それを上回る力を見せること。痛みを2階席の観客にまで伝える表現力。優劣性を決定するのは、勝ち負けだけでないことが、猪木のプロレスから感じることができるのです。

 

プロのアスリートの多くは、「一心不乱に練習に取り組み、相手だけでなく自分とも競い合っていた」ような人かもしれません。しかし、世の中にはそんな人ばかりではありません。夢や目標を持てない人や、努力を怠る人だって多いのです。しかし、そんな人たちを軽蔑し差別することはあってはならないことですね。

 

スポーツ哲学は、スポーツが得意な人が凄い!のではなく、スポーツを個性あふれる私たちの楽しみとして考えることなのかもしれません。そして、それは人生の本質につながるのです。

 

日曜日の朝に・・・たまには哲学をしました。みなさんにとって、スポーツは何ですか。