十二人の怒れる男

小学校低学年用のドッジボールを購入したので、今日は屋上で、初めて子どもたちとドッジボールゲームをやりました。ルールを教えながらゲームをしたのですが、予想外に盛り上がりました。ボールの投げ方やとり方など、まだまだ練習が必要ですが、「また明日やりた~い!」と、子どもたちのドッジボール熱が高まりました。

 

さて、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の脚本を担当する三谷幸喜さんが、かつて「12人の優しい日本人」という映画の脚本を書きました。当時は、日本に陪審員制度がなかったですが、12人の俳優たちの語りだけで映画が成り立つことに、私は、今でも深く印象に残っています。

 

三谷さんは、1950年代の映画「十二人の怒れる男」を参考にしたのですが、この古い映画は、年月や時代が変化した今でも、その意義も価値を失うことがない作品として評価されています。

 

舞台は、裁判所の狭い一室です。陪審員として招集された12人の男たちのセリフのみで展開します。彼らに託されているのは、父親殺しの罪で裁かれる貧しい少年の生命です。決議には、全員の意見の一致が必要です。

 

最初は、誰もが少年の有罪を確信し、採決で早々に決まると思われました。しかし、投票の結果は有罪11票、無罪1票です。無罪を主張した理由は「それほど簡単に人の生死を判定してよいのか」「証言や証拠をうのみにして判断してよいのか」ということです。そこから、12人による話し合いがスタートするのです。

 

証拠を1つ1つ吟味する過程で意見の対立が激化します。しかし、浮かび上がるのは、客観的な事実の解明を阻む個人の先入観や偏見、他者への無関心、そして感情のいら立ちです。対話を重ねるごとに誤解や思い込みが徐々に払しょくされて、明らかと思われた証拠や証言が次々に覆されるのです。採決のたびに無罪票が増えていき、最終的に全員の主張は無罪となります。

 

この映画は、まさに多様性の受容や対話による正義の実現、差別や偏見を克服する理性や民主主義のメッセージをうたっているのですが、同時に、真実を正しく判断し、責任ある意見に基づく議論を成立させることの難しさをも提示した作品です。

 

未来を担う子どもたちに求めることは、情報と事実を多様な視点から精査し、検証しながら、「対話の意義」を大切にすること。そして、真摯に真実を追求する意識や態度が必要だということです。時代が進んでも、これは不変のテーマでしょう。

 

子どもの頃から「対話をする」習慣をつけさせたいものですね。