「納得解」を見つける

今日の寺子屋では、久々に「しりとり探検」をしました。お店で売っている商品をしりとりをしながら探していく、探検ゲームです。メガネ→ねんど→ドーナツ→ツナ→なす→すいか→貝まで進み、答えた園児が、売場を探しますが、なかなか見つからないときは、みんなで協力して「あそこじゃないの?」と探します。そして、貝→イチゴと答え、みんなでイチゴ売場に向かいました。しかし、そこには桃が並んでいて、イチゴは売っていませんでした。すると、年長男子が「イチゴはしゅんじゃないから、もう売ってないんだよ」と言ったのです。旬という言葉を知っているなんて、スゴイ!

 

さて、ここで問題です。「友だちから手紙が届きました。ところが、切手が不足していたため、足りない料金を自分が支払うことになりました。皆さんなら、足りない料金を自分が支払ったことを、手紙を出した友だちに話しますか。それとも話しませんか」

 

次の問題です。「逆に、自分が出した手紙の不足分の料金を、友だちが支払ったとします。そのことを自分に話してほしいですか。それとも話してほしくないですか」

 

答えは、それぞれ半分ずつにはなりませんでした。自分が料金の不足分を支払ったときには「話さない」けど、友だちが不足分を支払ったときには、自分に「話してほしい」と答えた人が多かったのです。私も、同じでした。

 

でも、それって、おかしいですね。このように、たとえ同じ問題であっても、立場を変えると考えが変わってしまうことが、この世の中にはたくさんあります。今回の問題は、正解がない問題です。私たちは、これからの人生の中で「原子力発電」「死刑制度」「クローン問題」「脳死・臓器移植」といった問題をどう考えたらいいか、いずれも正解はありません。

 

しかし、そのときに大切なことは、自分が知っているわずかな情報だけで判断しないことです。自分とは違う考えの人の立場で情報を集め、公平な目で比べる必要があります。よく、「相手の立場になって考えなさい」というアドバイスがありますね。

 

こうして、人によって考え方が違うのは当たり前のことですが、同じ人でも、その時に置かれている立場によって「答え」は変化し続けるものです。最近よく聞かれる言葉に「納得解」があります。正解がない問題があっても、いたずらに対立することなく、自分が納得できる「納得解」を共に見つけようとすることが、これからの世の中には必要なのかもしれません。

 

ひょっとしたら、戦争のない平和な世界は、それぞれ立場が違う国が「納得解」を見つけ合うことかもしれませんね。